海へ行きましょう

猫の肉球の感触を楽しむような、そんなブログを本当は書きたいのだが

応援される経験

誰かに応援されている、と、心から思えたことがない。なんなら、芽を摘まれた、そんなふうにさえ思う。

 

お母さんから、私という人間を応援されたことがないと感じるのはなぜだろう。冷静に考えると、小さい頃に習っていたバレエや小学校で通った陸上クラブ、中学で毎日お弁当を作ってくれたこと、文化祭の出し物を見に来てくれたこと、大学受験など、応援なしには叶わなかったであろうことがたくさん出てくる。

そしてこれは本当の気持ちで、友達が私を応援してくれたことはある。

 

ただ、自分の根幹をお母さんに応援されたことがないと感じる。自分の人間性を応援されていると感じられなくて、本心から興味を持っているものに対して、「興味がある」と言えなくなったのはいつからだろう?

 

自分の存在が恥、そういう思いがどんどん強くなっていった。そして、うつ病になった。

 

自分の存在を消して消して消して消して消して消して消していったら、心がなくなって、誰が好きなのかも何が好きなのかもわからない人間になった。

 

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「怒、哀、喜、楽」の順番で、人は感情を発散するらしいが(泉谷閑示 「『普通がいい』という病」より)、私は主に「怒り」(不機嫌)の感情で家族の空気を支配していたお父さんの態度が不快だったのと、感じた瞬間に感情を発散しているように見えたお母さんと妹のやり方にずるさを感じて、自分はそうはなりたくなくて「怒り」の感情を真っ先に封印した。

そうしたら他の感情も出せなくなって、感情もなくなった。

 

人の邪魔にならないように生きて、なんとなくその場で「最適」な態度を選んで、他人に優しく、それなりに明るく、まっとうな人生に見えるような、よくわからんけど渡された脚本をなぞって。

 

と、書いたが、表面上はそうでも、心は暴れていた。

 

諦めてないんだよね。

自分という人間の本質を生きたいという願いを。

 

諦めない。